川端康成に『心中』と言う掌編小説があり、昔から色々な物議をかもし続けて来ました。
これに関してあらゆる人がそれぞれに感想や解説を現代でも書いていますが、私の所感ではすでに梶井基次郎の『「心中」を主題とせるヴァリエイシヨン』でこのミステリアスな作品の謎解きは終わっているとの説に一票を投じます。
この機会に関心持っていただければ、ちょっとネット検索して『心中』に対する評価、論評のようなものを読んでみてもらいたい。
さらっと読んで、「逃げた夫に未練を残した妻が幻覚に狂って一家心中する話」だとか、「いやいや、女房子供に三下り半を突き付けられたモラハラ亭主が、逃げた女房に手紙を出してまで嫌がらせする話なんだ」とか、挙句の果てには「出奔した先で客死した夫が悪霊になって妻や子に祟りをなす話」など。解釈のバリエーションが豊富で、それだけで二度三度どころか、一生楽しめそうな作品ではある。
しかし、川端先生ずいぶんないたずらを仕掛けてくれたもんですな。まさか後世でこの掌編がここまで文学オタクたちのオモチャにされるとは思ってなかったろう。
いや、そこは流石ノーベル川端! 彼一流の魔力で書いた掌編ですよとの理解も出来ますね。
確かにすごい筆力で、
(子供に瀬戸物の茶碗で飯を食わせるな。その音が聞えて来るのだ。その音が俺の心臓を破るのだ。)
(子供を靴で学校を通わせるな。音が聞えて来るのだ。その音が俺の心臓を踏むのだ。)
(子供に瀬戸物の茶碗で飯を食わせるな。その音が聞えて来るのだ。その音が俺の心臓を破るのだ。)
この辺りから鬼気迫るものがある。
(お前達は一切の音を立てるな。戸障子の明け閉めもするな。呼吸もするな。お前達の家の時計も音を立ててはならぬ。)
「お前達、お前達、お前達よ。」
ほんの2ページの掌編なので、ちょっと引用しようとしたら全編書き写してしまいそうになる。故にかどうか、このブログのコンセプトの「印象的な一行について」の紹介ってのがしにくい。むしろ、徹底的に読者が自由に解釈して感情移入して良い作品として捉えると、『心中』は正に打って付けかもしれない。
手身近に私オリジナルの解釈をここに書いてみるとしましょう。
何らかの未練や後悔を残した元家族が、それぞれに苦しみながら、今はもういない相手の声を思い浮かべて暮らす話です。
このようなことを書くと、『女は男と違っってこんなに未練がましくない」など言い出す人がいるでしょうが、そんな話は個人的な意見だけにして置いてください。はっきり言ってそれどうでもいいです。男女問わず人は誰でも未練や後悔にある程度縛られて生きているもんです。それが無ければ、過去の経験や知識なんてのも有り得なくなりますからね。そもそも「あたしサバサバした女なんでぇー」なんて言うのは大概が嘘です。古来から恨みを残して化けて出るのは女と決まってる。
お化けの女はともかく、生家に帰って「あんたが小さいころお気に入りだったタオルケットが出てきてねぇ。懐かしくって」なんてことを言って子どもの成長を喜んでくれるお母さんこそが良いお母さんなんじゃないのか? 私ならそんな母がいれば、ちょっと照れ臭くも素直に嬉しい。
お父さんが書斎の机の引き出しに、娘が初めて幼稚園の図画工作で書いてくれた「お父さんの似顔絵」を保管していて、たまにこっそりウイスキーグラスを傾けながら、昔を懐かしんでいるなんて涙が出そうになる良い話です。
少なくとも、思い出を大切にしてくれない相手となんて人付き合いする意味が無い。
生きる以上は、全てを背負って今を全力で生きるべきで有り、未練や後悔なんて趣があって良いものです。
生きるか死ぬかの葛藤も、本当に死んでしまえばこの作品のように様々な解釈を呼んだりすることも出来ないもんだ。
川端先生の最期はさておき……ですけどね。
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