魚は何も考えない。だって魚は生きるために必要なことを初めからすべて知っているから。
びっくりするほど何のためにもならん映画だ。悪い意味ではなく、人がどうしたいのか何になりたいのかなんて他人からは理解出来るはずもない。だからどんなに非生産的なことに必死になっている人がいようが、絶対に不可能なことに挑戦している人がいようが、そっとしておいてやればいい。どうせ食うに困ったら人はどうやってでも食って生きる方向に舵を切る。
そもそもどう生きるかなんて考えること自体がおかしいのではないか? 魚は考えない。生きるためには、泳いで餌を食って他の魚に食われないようにするしか選択肢が無いのである。人間だって本当はそうなのではないのか? 必ずしもなりたいようになれず、楽しいことばかりでもなく、暑い日もあれば寒い日もある。晴れたり曇ったり雨が降ったり。好きな人とは必ずしも結ばれず、嫌な奴から嫌な話を聞いて過ごすことがほとんど。良いと思った決断がいつの間にか最悪の決断だったと気付き、それでも息を止めて暮らすことが出来るわけでなし、ひたすら毎日命を繋ぐために単調な動作を続けるしかない。「何故生きてるの?」と聞かれ、「死ぬのが怖いから」と答える。こんなのが二十一世紀現在も地球人口81億1900万人(2024年調べ)全員が繰り返す日常だ。
どうせ生きるなら楽しく生きろ。社会のために家族のためになんて考えるな。みんな本当は、そんなことのために生きているのではない。たまたま生まれてしまって、本能に従って死を恐れて生き延びているだけだ。
そう考えると魚と人は何ら変わらない。子孫繁栄のために魚だって子どもを産んで、その子どもが更に孫を作って、自らの種を繋いで行くことを生物の本能としてやめない。
人生の真理を突き詰めて行くと、「割れ鍋に綴じ蓋」と言うところに落ち着く。つまりなるようにしかならない。
ここで私にはアリゾナドリームのテーマ曲『In The Death Car』が流れる。「Fish doesn’t think, because Fish knows everything」(魚は何も考えない、なぜなら魚は何でも知っているから)とイギーポップの声で。
生きるとはつまりそう言うこと。
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