ブラジルから来た少年

映画

 クローン羊のドリー誕生が全世界に公表されたのは1997年辺りだったか。理論的には出来ないはずがないことだったのだろうけれど、倫理的にやってはいけないなんて報道をよく見た覚えがある。
 そんな1997年から遡ること十九年。1978年に発表された『ブラジルから来た少年』では、ヒットラーのクローンを作ろうとするナチの残党の話だ。
 クローンの作成が1978年当時ならどうってことのないSF的題材として成立していたのだが、これは2024年現在では全然SF的でもなく、現実に起こり得るであろう事案になっている。
 ただ、肉質の良い牛のクローンを作ればやはり旨いステーキが食えるなどとは違って、人間も本体と同じようにクローンが活躍するってのは、成長環境まで逐一同じように仕立てなければならないので現実的ではない。
 この問題は1978年から現代に至るまで変わっておらず、本作でも「ナチス死の天使ヨゼフ・メンゲレ博士」が奮闘するもヒットラーの複製を作ることに頓挫している。
 養老孟子先生がかつて『バカの壁』で説いたように、つまり人間は入って来た情報に自我を掛け算して行動を出力する生き物だと言うことですね。唯一の個性だと思える自我ですら、それを形成するための外的刺激を必要とするので、生まれ持った個性だけで何かを成し遂げることは無いだろう。
 少し考えればわかることなのだが、七十年代にはまだクローン技術なんてのがすごく神秘的であったのだろう。
 現代においてクローンが何の役に立っているかと言うと、遺伝子病治療の研究や移植用臓器の創生などか? バイオテクノロジー分野で品種改良を経て安定した作物の生産など、あらゆることに役には立っているのだろうけれど世間一般で言う「夢のクローン技術」には程遠い。
 死んだペットのクローンを作って、新たに飼い始めるなんて人もいるらしいけれど、これもゾッとする話だなあ。

 生物の寿命については諸説あるのだろうけれど、人間をはじめ哺乳類や魚類爬虫類植物などの有性生殖をする生物は、一代でやり残したことを次代に他の遺伝子を取り込んで進化した形態がやり遂げるなどの意味があって、寿命が短い種ほど進化が早くて環境適応能力があるので生き残りやすくなる。
 環境の変化に対して、普段クジラに食われる小さくて短命なイワシのほうが、イワシを食い殺す大きくて長命なクジラより進化も早くて環境に適応しやすいから、種として生き残りやすいだろう。
 現代で遺伝子病とされているものだって、実は人類が絶滅の危機に瀕したときには、何らかの要素で人類絶滅を防ぐ方向で働くのかもしれない。ダウン症なんて正に、本人も家族もご苦労はおありでしょうが、人類のデフォルト状態が彼らなのではないだろうか? 人類が間違った進化をしてしまったときのための安全弁なのかもしれない。
 ヒットラーの優生思想がいかに危険なものであったかは、今ここで語らなくとも現代ではみんなが気付いている事でしょう。
 ただ、そのヒットラーでさえ人類が進化の中で生み出した存在であり、ヒットラーさえいなければ人類が今よりもっと恵まれていたと簡単に言えるものでもなかろう。
 映画については、グレゴリーペック演じるメンゲレ博士と、ローレンスオリヴィエ演じるナチスハンターのリーベルマンの対決なのですが、この1978年の世相ではまだ第二次大戦の記憶も新たなころだし、リーベルマンがんばれ! メンゲレ天誅だ! と言う向きだったのかな?
 現代人は戦争責任ってのをどう考えているのが主流なのだろう? 当時家族をナチスによって奪われた人たちはそれはさぞかし絶対に許せない存在がヒットラーだったのだろう。
 しかし、ヒットラーですらドイツの国民たちが待望した指導者であったし、世界を見回してもヒットラーは国際世論から概ね好意的に見られていたのである。これを永遠にナチを責める理由として良いのだろうか?
 現代では考えられないことだが、ドイツは二十世紀初頭にハーバー・ボッシュ法により人造窒素肥料が開発されるまで、瘦せた土地で食うや食わずで暮らしていたような地域である。飢餓と貧困に戦争はつきものであり、第一次大戦後に民族自決が平和のための思想だと喧伝したのは誰だったか? ナショナリズムは平和の一助になるとの考えが国際的に常識だったのではなかったか? 食うための領土拡張と異民族排斥なんて現代最も国連常任理事国がやっていることなのではないのか? 中国はウイグルやチベットで民族浄化に励んでいるし、ロシアは武力でウクライナを獲得しようとしている。韓国はアホな国民を煽って無関係な日本を世界中で貶している。これらには何の罰も与えようとせずにヒットラーだけを責めるのはおかしな話だ。
 世界では暴力とウソが今でもあふれかえっている。
 科学がどれほど進んでも処置なしなんである。

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