人に迷惑をけて死ぬべし
双方向的な思考は、物事を判断したり思考を深めるために最も大事な方策のように思う。本作では天才三島由紀夫が、彼一流のサーヴィス精神を込めてツカミからオチまで爽快な流れで書いたエッセイ集である。
三島の文章が上手いのは当然のことながら、あえて読者を楽しませることに主眼を置いた作品を書いた理由は何だろう? 一説によると、件の『盾の会』に運営費用がかかり過ぎて、晩年の三島は金に困って女性誌に粗製乱造していたと言う話だが果たしてどうだろう?
これに関しては、エッセイなのに映画化されたり舞台化されたり謎に軽薄なある種のブームになったようですが、背景を語られるとこの時期から作者の心の中に闇が生じていたのかもしれない。
有り余る才能があり、社会生活者としても何ら問題はなくこなせて、食うに困るほどの貧困もなかったであろう三島がなぜその後の展開を迎えたのか今では誰も知りようがないのですが、私が一つ考えるに人間はやはり無目的に生きることが難しいと言うことだろうか?
三島が大正十四年生まれなので太平洋戦争終戦の年にちょうど二十歳になった世代だ。少し上の人たちは、とにかく戦争に勝つことが公的にも個人的にも至上命題であり、それが成せなければ自身も家族も地域も国も何もかもが無くなってしまうと思い込んでいたのである。
この辺りの話を現代人はおざなりにしているが、太平洋戦争前のアジア全域を見ると、南方では西欧諸国がずいぶん残酷な植民地政策をしており、インドネシアやフィリピンなどで教育もインフラも何もかも無く。ただただ男は奴隷に女は娼婦にとしたような扱いを三百年ほども続けていた。故に戦時中の日本人が欧米諸国に国を奪われれば、自身も家族も隣近所もみんな奴隷や娼婦にされると思っていたのは当たり前であり、実際に日本だって敗戦時に一つ間違えば今ごろ奴隷と娼婦の国になっていたかもしれない。事実、市ヶ谷事件で力尽きた1970年当時の三島自身が、日本は奴隷と娼婦の国になってしまったと感じていたのかもしれない。
日本と西欧諸国の戦いは、秀吉の文禄慶長の役から既に始まっていたとするのが昨今の説であり、秀吉が明に宣戦布告して明の属国であった朝鮮に出兵したのは、いよいよ明がスペインに征服されそうな気配を察して先手を打ったことによるらしい。それが証拠に秀吉は当時スペイン領のフィリピンにも出兵するぞと恫喝している。
とにかく豊臣秀吉から東条英機まで日本は防衛戦争に明け暮れていたのであり、絶対に欧米にも支那にも屈しない態勢を取ってきたのである。
三島由紀夫にこの程度のことが理解出来ないはずはないので、日本の将来を憂いてくれていたのかもしれないが、そんなことで個人がヒステリックに何らかの行動を起こしても、所詮あの様で済んでしまう。
これにおいて、三島は自身の人生にもオチをつけた。本作では不道徳と思われる行動でも、それには双方向的に道徳に転じるとする趣旨が描かれるが、『人に迷惑をかけて死ぬべし』の項だけは三島先生さすがにやりきった。
天邪鬼大いに結構。付和雷同して悪人を仕立て上げてしまう現代のほうがよっぽど危うい社会になっている。
バカどもめ!
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