人には生まれついての悪人などいないのであって、誰しもが他人と分かり合って幸せに暮らしたいものですよとするのが性善説。
それに対して人はどうやっても自分を守るためには罪を犯す生き物なのであって、誰も見ていなければ怠惰な盗人になるもんですよと言うのが性悪説。
どちらを信じて人生を歩むかそれは各人自由のなのですが、古今東西他人に恨みを抱かない奴はおらず、人間の悪意の種は滅びることがない。
嘆かわしいことではあるが、性善説的な楽観主義と性悪説的な悲観主義のどちらを選ぶべきなのかなんて永遠に答えが出ないのが当たり前だ。
各々個人がどう考えてどう生きようが、社会は確実に性悪説によって動いているのである。例えば法律を作ってこれを守ってくださいよと言っただけでは、誰も従わないし世の中変わらない。警察や軍隊などの暴力装置が働いて法律違反に罰則を加えてこそ円滑な社会生活が守られるのである。
つまり正義とは暴力であり、人の幸福が正義によって為されるのであれば、戦争も犯罪も批判されるに当たらない。何故なら暴力によって勝ったほうが正義であり幸福であると言えるからだ。これを暴論だと断言出来る人がどれほどおられるだろうか? あなただって常日頃から暴力によって守られているのだ。否定するな噓つきめ! 嘘つきめ! 嘘つきめ!
いやいや、こんな小難しい話をしたいわけではない。太宰治は「それに僕は、ひとの言葉をそのままに信ずる主義である。だまされたなら、それはだましたほうが悪いのだ。」と書いたが、本人は恐らく、だまされて自らのメンツを潰されたら、烈火のごとく怒る狂うような人だったんだろうなと推測される。何故そのように思うかと訊かれると、私は女にモテる主人公が出てくるような小説を書く作者が嫌いなので、そんな風に考えて留飲を下げるしかない。
これが世間一般に蔓延る性善説と性悪説のわかりやすい対立だろうか?
しかしこれもまだわかりにくい。実は数日前からもっとわかりやすい例を考えてあった。とっておきの例え話である。
個室の中に手洗い場があるトイレと、個室を出て共用スペースに手洗い場が設置されてるトイレの違いを考えてみよう。
用を足して手を洗ってから個室のドアを開けて外へ出るタイプのトイレだと、手を洗わない輩が一人でもいるとそいつの手の汚れがドアノブに残って、その他大勢の手をも汚し続けて行ってしまうのだ。
だがしかし、個室を出てから手を洗うタイプのトイレだと、手を洗うや人と手を洗わないバカが同じところを確実に触るわけではない。これをもって前者を性善説。後者を性悪説と分けることが出来る。反論は無いはずだ。
ここまではともかく、人が生きる上で何が重要かを考えるに、楽観論と悲観論と言う視点ならあなたはどちらを選ぶ? 疑ったり妬んだり嫉んだり殴り合ったり殺し合ったりしても、自分だけは損をしたくないと考えて生きるのはつまらなそうだ。
ともかく自分だけは間違ったことはしてないから、後は他人を信じて楽しく生きて行こうってのが、やはり間抜けな私には合っている気がする。
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