思いがけない大波にさらわれ、夫とふたりだけで無人島に流されてしまったかのように、ある日突然がんと診断され、コロナ禍の自宅でふたりきりで過ごす闘病生活が始まった――。
最後まで恋愛小説家であったかとある意味感心した。良い意味でも悪い意味でもだ。2000年代初めの山本文緒はかなりの多作で、私も興味を持ってこの人の作品を読み漁った。
恋愛小説のジャンルはあまり興味の持てない私でも、この人の作品はとても面白いと思えるもので、端的に言うと人間関係に客観的な視点を持っているところが、他の恋愛小説家との違いなのではなかろうかと評価している。
山本さんの作品には山田詠美や林真理子作品のように美人で強くて正しい女は出てこない。恋愛小説的にはアンチヒロインストーリーとでも言うべきだろうか?
まず見た目はパッとしない。金には困っているので、何かリッチなイベントが起きるときには金の出どころの記述がつく。
この金の出どころってのが恋愛小説ではどうなのかと……もはやそれは御法度なのではないのかと。しかし男女の付き合いに所帯じみたことなんて絶対に避けられないのであり、人は何故か食わなきゃ死ぬし汚れた環境では暮らしにくいし見栄も張りたいし金がすべてとは言わないが何をするにも金はかかる。
当人たちは俳優女優さんがやってるドラマの登場人物にでもなったかのような気分でいなければ盛り上がらないのだろうが、所詮私たちカップルなんて傍から見れば吉本新喜劇のコントみたいなものなのよとでも言わんばかりの客観性で語られる山本文緒の小説やエッセイが私は大好きだった。
もともと活動休止の多い作家さんだったので、思い出したころに新刊を読めればラッキーくらいに思っていたのだが、昨年久しぶりに彼女の名前を見かけたらお亡くなりになっていた。
日々是作文として生きて来た山本文緒にしたらある意味で闘病生活もネタに使えてラッキーか……いや、それはそうとして残された旦那さんとのことである。山本文緒ウォッチャーなら彼女の気の毒な異性関係についてのエッセイなども読んでいるだろうから知っているだろうが、旦那さんとは再婚である。だから何だと言っても、山本文緒は心の問題で苦しんでいた人であり、本人はともかく周りの人にもかなりご苦労があったのだろうと思う。心の病について本人は本当にどうすればいいのかわからない。周りはもっとわからない。暗く陰にこもってこの世を儚まれても困るのだが、明るく攻撃的になって大量殺人でも犯されたらもっと困る。
ここまで書いて来て今更だが、私はこの稿で扱う書籍をまだ読んでいない。多分この本は読まないな……病気の話は嫌いだし。
今までの経緯を彼女の作品を追って来た私の視点で考えるに、実は死ぬ前が彼女にとって最も幸せな時期だったのではなかろうか? 何も知らないくせに勝手なこと言うなと怒られそうだが、あくまでも恋愛小説家としての彼女にとってこれは一世一代のチャンスだったはずだ。何せ誰もが憧れてやまない伴侶と添い遂げると言う目標が間近に迫っているのである。「死ぬまであなたと離れないわ」これが出来ちゃうんである。恋愛小説家冥利に尽きるってもんでしょうよそりゃ。
膵臓癌だったらしいが、私も慢性膵臓炎持ちなので膵臓の病が辛いのはわかる。膵臓の付近には神経の束があるらしく、病巣がそれに触るとひどく疼く。かつてこの痛みがひどすぎて大学病院の疼痛外来と言うところに通っていたことがあるのだが、普通にモルヒネを出してくれる。ひどいときにはソセゴンと言うモルヒネ製剤の点滴までしてくれる。そして病院帰りに調剤薬局で塩化モルヒネ錠をもらうときに薬剤師のお姉さんにものすごく気の毒そうな顔をされる。
みんな自分にとって特別な相手を作りたがる。この人だけは自分の味方だと思える相手が、一人だけでもいてくれればこの世も地獄じゃない。何であれ山本文緒の苦痛に満ちた人生も最後は報われた。作品の中で散々自問自答して来たことに本人はきっと納得出来たのだろう。そう思わなければ故人に対して失礼な気がする。
昔読んだこの人の『きっと君は泣く』で浮気者のお父さんが交通事故で寝たきりになって、その看病をするお母さんが「この人はもうどこへも行けない。わたしだけのものなの」と言う場面が思い出されていささかホラーテイストに感じるが、これも一つの形のなのだろう。代理ミュンヒハウゼン症候群を疑う状況でもそれを愛だと思う人はいるのかもね。
ここまで来てこそようやく恋愛道免許皆伝ですよ。
山本先生面白い小説をたくさんありがとうございました。
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