先日、マンガ家の鳥山明先生がお亡くなりになりました。
私は世代的に恐らく鳥山明先生の作品がドンピシャなころではないので、実はそんなにこの人の作品に思い入れはありません。
いや、今更何か嫌なことを言いたいわけではなくて、鳥山明先生のマンガでは、『Dr.スランプ アラレちゃん』をテレビアニメで子どものころに観ていました。
話の筋が有るような無いような作品なので、今となっては何を思って観ていたの
かさっぱり思い出せないのですが、今は亡きうちの祖父が、「キャプテンやらドカベンはまだわかる。仲間を大事にしようとか、つらい練習に耐えて勝利を目指そうとかな……。でもこのアラレちゃんには何の教訓がある?」と言っていたのだけは覚えてる。
ちなみに祖父は大正生まれで、支那戦線に長年従軍したくらいの世代なのですが、テレビで白土三平の『カムイ伝』を楽しみにして観ていたくらいにはアニメやマンガを子ども向けのものと見下す風ではない人でした。その連れ合いの祖母も、松本零士氏の『銀河鉄道999』を夕方の再放送で観て、「今の子どもはいいなぁ、大人になるころには汽車で宇宙へ行けるようになってるかもしれん」などと言っていたくらいですから、マンガやテレビやアニメが人類の技術の進歩の一端だとの認識はあったのでしょう。
当時、比較的進歩的な考えを持っていたであろう、うちの祖父母をしても、やはり木の枝の先にうんこを突き刺して走り回るマンガは評価に値しないとされていたわけですね。
件のアラレちゃんの後に『ドラゴンボール』を発表してからが鳥山先生の最盛期との見方でよろしいのでしょうかね? 第二次大戦前や、下手をすると江戸時代ころから少年向け読み物ってのは日本文化にあったものだったようですが、古来には少年誌の売れ筋作品が西遊記や水滸伝をモチーフにしたものが多かったと聞く。戦国大名や赤穂浪士やヤマタノオロチみたいな国産アクションストーリーを差し置いて、中国製の西遊記、水滸伝などがとは思わない。ほんの二百年ほど前にアメリカが世界の覇権を握る前までは、清国が世界一の経済大国だったのだから、当時の日本人が中華製エンターテイメントに熱狂してたとして、現代人がハリウッド映画を楽しんでいるのと何ら変わりはない。
悲しいことに芸能、エンターテイメントと芸術は違うものだ。芸能エンターテイメントは経済的利益が無ければ、おのずと消え去ってしまうが、芸術は一銭の利益も無かったとして、後世で芸術的価値が認められる場合もある。究極の自己満足が煮詰まったものが芸術だとして、芸能エンターテイメントは他人に媚びまくってこそ成立する、そこが故に無一文で孤高を気取る自称芸術家が、自分は乞食ではないと謎の自意識を高める根拠になっているのである。
鳥山明氏が亡くなられて、今更ながら彼のやってきたことを報道で知ったのですが、元々はデザイン事務所でイラストレーターをやっていたのが、たまたま絵を描けるからって理由でマンガ家に転向したのだそうな。そこで編集者の鳥嶋和彦氏との奇妙なコンビが誕生するに至り、バランスが取られて時代を変えるほどのマンガ、アニメブームが牽引されて行く顛末となった。
何だかんだでそんなに単純な話ではなかったんだろうが、鳥山明先生は思う存分好きな絵を描いて、最大限稼いだ幸せな画家であったと言えると思う。
空想上のすごい機械や、理想的な表情を浮かべる人物など、自分の空想を好きなだけ描きなぐって、しかも誰に後ろ指さされることもないくらい金を稼いだ。世界中のどんな画家よりも稼いで、人々に夢を与えた。そしてその界隈での新技術も多く生み出した。登場キャラの目の光や口元の歪みでその場面での心理を絵描きのアプローチで表現するってのは、浮世絵のころから日本の伝統的な技術であるが、鳥山明は間違いなくその路線を誰よりの進化させたと言えるはずです。
たまに日本のマンガ、アニメは目が大き過ぎるので、あれは目が大きい白人へのコンプレックスだとのよくわからん指摘があるが、じゃあ目や口を小さく描いたとしたら、一体どうやってそのシーンでのキャラの心情を表現すると言うのだろう? 最近のコロナ騒動で、日本人がマスクを手放さないのは、白人は口元で相手の心情を量り、日本人は相手の目を見て心情を量るのだとか、愚にもつかないことをいうやつらがいましたね。そんなこと言ってるやつらは、浮世絵も手塚治虫マンガも何も見たことがないんだろうな。あいつら日本人じゃないだろ。
この表情を描き分ける感覚が、外国人には理解出来ないらしい。それが証拠に、作画を海外に外注した場合のアニメ作品は、黒目の中に光が描かれておらず、黒目はただ真っ黒に描く。これでは日本の美意識やストーリーは伝わらない。
鳥山先生だって外国向けに絵を描いたわけではなかろうから、外国人に理解してもらうつもりもないのだろうが、とりわけ鳥山明先生は海外での評価が高いと聞く。フランスのマクロン大統領が、「鳥山先生の死を全世界で数百万人のファンが悲しんでいるだろう」と言ったらしいが、数百万どころか数千万か数億人くらいは先生の作品に触れた人がいるんだろう。フランス語はやはり数の勘定が出来ない言語との評価が正しい。
世界には様々な感性を持った人たちがいて、その感性や価値観を押し付けあう必要はないが、多くある世界の文化の中でほんの一部だけでも共通認識を持って一喜一憂出来るのなら、それは素晴らしいことに違いない。
数の勘定が出来ないフランス人と、魚を生で食う野蛮な日本人でも一部だけ文化交流しやすくしてくれた鳥山先生ありがとうございました。
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