偸盗 芥川龍之介著

書籍

 この作品は生前の芥川が、自身の作品の中で最も失敗作だと断じた小説である。
 何故本稿でこの話になるかと言うと、単に私は作者と感性が違うので、この話が好きなのです。この小説はとても現代的なお話で、いつの時代のどこにでもあるようなサイコパス同士の葛藤を描いたものですな。むしろ文芸作品より現代のアニメや映画にこそ向いた題材だと思う。それが証拠にこの作品には印象に残る一行が無い。めちゃくちゃ頑張って探しても無い。芥川にとっては痛恨の失策だっただろう。


 しかしエンターテイメント性抜群で、芥川の平安物作品群の中でのスターシステムを取っており、『羅生門』や『藪の中』などの応仁の乱後で荒廃した京の都に跋扈する悪党がオールスター出演する。
 サイコパス美女、沙金。熱血メンヘラヒーロー、太郎さん。イケメン、二郎さん。極悪人、多襄丸。無軌道老人、猪熊の爺。情念の大和なでしこ、猪熊の婆。その他それぞれ「ああ、あの作品にもこんなやつ出てたなあ」と思えるキャラが思う存分暴れまわるお話として、ちょっとした冒険活劇アニメーションが作れそうだ。
 同じことをみんな考えるらしく、『羅生門』『偸盗』『藪の中』はマンガ化されていて、これはとても良い題材だったんだろうなと言える出色の出来である。


 しかし、この荒廃した応仁の乱後のお話三作品の中で、教訓めいたものが無いのは『偸盗』だけなのではなかろうか? 羅生門で追いはぎをして藪の中で強姦殺人をする話ですら教訓になりそうなテーマがあるのにも関わらず、比較的多くのキャラを登場させて何の教訓にもならない作品にしてしまったのはどう言うことか!? 『偸盗』にあえて教訓を求めるなら、「ヤバイ奴には近寄るな」とか、「嫉妬に苦しむくらいならスッパリ諦めろ」ってところだろうか?
 しかし、この平安物(巷では王朝ものと呼ぶらしいが、私はその呼称が気に入らない)の平安京荒廃前『鼻』『芋粥』などは読んで何となく幸せになれるような風情があるのに、この応仁の乱による荒廃後の作品群には何かと救いがない。
 小学生のころに、社会科の授業で荘園の説明に関する副読本かなんかで、『芋粥』を題材にした文章が載っていて、家に帰ってから今は亡き祖母に「芋粥と言うのはどんなものか?」と尋ねると、「はあはあ……」と言いながらとろろご飯を作ってくれた。実際にはとろろご飯と芋粥はまったくの別物だが、現在五十近くなってもとろろご飯は大好物である。


 芥川龍之介作品について書くなら、他にもっと良い題材があるはずなのだが、どうしても『偸盗』について書きたかったのは、現代は豊かになったから何の教訓にもならない全くの娯楽のためだけの作品を作っても、それで生活が成り立つ場合もあると言うことだ。芥川存命のころはエンターテイメント産業なんてまだまだか弱いもので、「そんなのはドサ回りの旅芸人にでもまかせておけばいいですよ。東京大学を首席で卒業されたお偉い先生は、もっとお国のためになることに精を出してください」なんてことになってたんだろうなあ。
 現代では出版社でとんでもない高学歴の人がマンガ編集者として活躍していると言うが、それは我々日本人がものすごく恵まれた社会環境を甘受していると言うことに他ならない。
 百年後の日本人が昭和~令和辺りについてどう考えるようになるか……長生きして見てみたいなあ。あと百年生きて妖怪にでもなろうかしら?

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