イヤー・オブ・ザ・ドラゴン Year of the DRAGON【1985】

映画

 飛び交う銃弾! 燃える車! 執念VS執念! 刑事を題材にするならこうでなきゃ。
 ベトナム帰りの偏屈刑事が、ニューヨークのチャイナタウンに蔓延る悪徳と戦うアツイお話……なのですが、これは面白いけど結構ひどい話だ。
 私は当然この手の孤独な偏屈者が巨悪と戦うって題材が好きです。しかし、現実でも本当に問題意識を持った個人が、何か行動を起こそうとするとこうなるのだろうなと想像がつく。


 国や国際機関があらゆる法整備や規制を敷いても、結局は警察機構や軍隊などの暴力装置をもってしないと法も規制も行使出来ないとは前にも書いた。そしてそれに不満を持つ何らかの組織などあればまた、それら達も同じように暴力装置を持って対立するのは自明であり、何ら不思議ではない。
 ならばそれら国や国際機関と対立する組織などを悪として描くストーリーが、何故映画として成り立って賞賛されるのかと言うと、国や国際機関は曲がりなりにも民主的に目標を定めているから悪の側ではないと言う、極めて曖昧な根拠によるのだと考えられる。
 ゴジラと戦うとして、ゴジラは自分が悪事を働いている意識を持つとは思えないし、自然災害と戦う消防や自衛隊だって悪と戦っているわけではない。
 八十年代のニューヨークでは、身にかかる火の粉を払うためには銃が必須であって、故にこんな映画が成り立つと考えるのもそれはそれで正しいが、方法を変えただけで、今でも同じような戦いは多い。
 中国人は世界中のあちこちで中国人コミュニティを作っているが、日本人から見たらあれはとても不思議なことで、何で海外に行くならその地域の生活様式を満喫して暮らさないんだとなる。かつて、インドネシアのバリ島に滞在していた経験のある女の子に聞いた話によると、「外国では日本人同士でカップルになる事なんかないよ。だって海外で日本人の女の子に声かけてくるのは韓国人の男の子ばっかり」だそうだ。
 日本人の男は、海外に出かけると外国人と必死で仲良くしようとするが、日本人同士だといくら魅力的な異性であっても、海外で暮らすようになった同胞の戦友のようにしか扱わないらしい。恐らく「お互い海外生活で苦労が多いけど、何とか頑張って目的果たして一緒に故郷の土を再び踏もうな!」なんて感じか? なるほど昔から『ビルマの竪琴』で水島上等兵が日本に帰りたがらなかったのは不思議だったんだけど、あれはつまり……ビルマの女の子はかわいい子が多かったらしいしなあ。少なくとも日本とイギリスにはビルマの女の子にノックアウトされて、帰国せずに脱走兵になったのが多かったとかなんとか。


 中国人コミュニティを形成している人たちにはその人たちの道理があって、アメリカに人脈を持たない中国人が稼いで家族を幸せにするためには、麻薬の売買にでも手を着けなきゃ仕方がなかったなどと言うのだろう。日本にいる在日外国人もそんなことを言っているようだ。しかしその結果、未来の日本が、あなたたちが捨ててきた故郷のように治安が乱れて環境も汚染されて、とてもじゃないけど文明的な暮らしが出来ないような国になってしまうかもしれない。
 外国に移民するってことは、その国の積み上げてきた文化を借りて暮らすってことで、いきなり他国から行ってその国の積み上げてきた文化を壊すこととは違う。ましてや本国にも大した文化や文明すら無い韓国人や中国人やクルド人が、日米でどんな他人のためになる文化文明を持ち込めると言うんだ?
 この手の対立と犯罪は本来別のはずなのである。だって元々教育水準や文化水準が似通った国同士なら対立は起きない。そもそも、移民先の国民と対等であるなら、わざわざ外国の中に祖国を形成しようとはならんだろ。


 でも八十年代のアクション映画は面白い。ミッキー・ロークとジョン・ローンの二枚看板で監督はマイケル・チミノなんて面白くないわけがない。何せ人が撃たれまくる、葬式ばっかり催される、高級車がつぶれまくる、仲間はみんな死ぬ。挙句にむしろ巨悪をつついたミッキー・ローク演じるスタンリー・ホワイト(ポーランド移民の家系)が悪いかのように言われる。そして巨悪は結局滅びない。
 現代に於いても結局、中国共産党が支配する支那大陸から逃げ出す人は後を絶たないし、世界各地に中華街は増え続けている。そして現代中国の文化を他国は有難がっていない。1985年から現代に至るまで、これが何も解決してないのは遺憾だねえ。

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