太陽を盗んだ男【1979】

映画

 観たのがだいぶん昔のことなので、細かいところは忘れてしまっていたから、この稿を書くに当たって『太陽を盗んだ男』でネット検索してみた。

 これを初めて観たときは衝撃的だったなあ。深夜放送の映画旧作枠だったのだけど、このころの私の知識範囲では、これは現実に起こり得る話だろうと考えていた。

 現代でこんなことは起こり得るのかと専門家に聞いてみれば、「ありえないですね。原爆を作るなんてそんなに簡単ではないし、カバンで持ち運べるレベルの原爆なんて国家事業で作ろうとしてる北朝鮮でも中々作れないレベルなのに、中学校教師がアパートの一室で作るなんてつまらんフィクションですよ。それにプルトニウムの管理は厳重で、とてもじゃないが盗み出すなんてムリです。他国の軍隊が来ても阻止出来るくらい強固に守ってあります」と涼しい顔で流れるように説明してくれるはずだ。

 日本が抱える原子力の問題はかなり根深い。1945年の原子爆弾被爆から、感情的に原子力は危険なものだとする意識が根付いているからだ。にもかかわらず、どうやっても資源に乏しい領土で工業化を続けて行くには原子力発電に頼るしかないので、原発を稼働させ続けて放射性廃棄物を貯めこんで行くしかない。そして放射性廃棄物であれ濃縮ウランであれプルトニウムであれ、物理的に存在するものならそれを奪われたりその場で爆破されたりする可能性は無くならない。

 このことからも、この映画で起こったことは1979年当時から何ら変わらずに現代まで日本人全体が抱える脅威なのだ。

 当時、この映画について広島の平和団体とかなんかが猛抗議して来たようだが、監督の長谷川和彦が、自身も1945年8月6日に広島でお母さんのお腹の中で被爆している胎内被曝者だと説明して抗議を退けている。

 最近の平和活動や原発反対運動を見るに、「コイツら本当に日本人か?」と思うようなのが多い。沖縄の基地反対運動家のプラカードには中国語や韓国語のスローガンが散見されるが、あれは一体何を求める運動なのか? 奴さんら絶対に世界平和なんて希んでないだろ。私はどうにも中共の簡体字ってのと、オデンみたいなハングル文字ってのは生理的に受け付けない。そもそも戦争推進活動ってのが無い以上は、戦争反対活動ってのがうさん臭く思えるのも仕方があるまい。先祖の霊の祟りのほうがまだ信用出来る。

 原爆は人類史上始まって以来最大の不幸だろう。アメリカがいくら日本の暴挙を阻むために仕方がなかったと言っても、そんなことは誰も認めない。

 日露戦争のときにはロシアにトドメをさせたはずの日本に、すでに継戦能力は残ってないのだから講和しろと勧めておいて、太平洋戦争末期でボロボロになった日本は、まだ危険だから原爆でトドメを刺すべきなんて意見が通ろうはずもない。

 原爆は一体何者であろうか? 核兵器によって他国を恫喝すれば平和が訪れるとの主張に一体正義はあるのだろうか?

 全ての国民が平和に文明を享受して暮らすためには原子力の問題を避けて通れない。

 そろそろ原子力即ち悪と言う考えは捨てて、真剣に議論してみてはどうか? 果たしてアメリカやその他の派遣国だけが核兵器で無理筋を通そうとするのは良いことなのかを。

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